Archive for 6月, 2016
気力<6月23日>
ラジオ深夜便の歌声、今月の歌が流れる前後に私は起きる。
このところ母の住まいに、介護を兼ね居候的寝泊まりもひと月を過ぎた。
その母の具合も随分よくなったよう見受けられる。
高齢者の元気度合いはまちまちだが、この間の母を見ていて特に感じる
私の認識不足かもしれないが老いは、赤ちゃんの成長と真逆で、だんだん生まれた状況に近づくと想っていた。
快方に向かうと言うより、成長することを気付かされた。
手足が不自由、杖なしでは歩けないなか、寝た状況でも手足の運動を欠かさず、おぼつかない格好で杖を使い歩く。本人が自主的に歩く訓練をする。
記憶力も同様だ、物も元の位置に戻すよう、ジーと人の行動を見つめ、しつこく注意する。
また、もう1月以上冷蔵庫を開けてないのに、何々がどこにあるだろうや古くなりもったいないから早く食べるようになど
手も同様だ、握力が限りなく0に近い状態、食事もままならぬがボールペンを持って動物の絵を描いてくれる。
私はこの母から生まれたが、本人が描いた絵など見たことも無かった。
これら母側から見た生への気力
現代感覚では、子やヘルパーさんから見たら、表向きは元気があって良いが、危なっかしく厄介なばあさんに映るだろう。
私は、そんな母の介護と言うより育てる感覚で見ている。
危なっかしくても自分でやらせ、また、言い争いは日に幾度も
今の世の仕組みや商品知識からの食生活、電気製品の使い方など。
母に新たな知識を伝えようとするが意地っ張り、しかし、多少折れて聞いてくれる。
たぶん、実子と責任からこのようでき、今のところ最善と考えている。
何世代が同居を良しとする家族の在り方、何気ない仕草、言葉がその絆崩壊が今のご時世。
親子で在っても世帯を異にすることで生活習慣が違ってくる。
古い言葉だがスープが冷めない距離、色々な人、立場、役割等を考えた結論